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平成23年 (2011年) 2月 2日

教育ちょっといい話 第111回

柳井市立鳴門小学校 校長 椿 千栄子

「寛容の心」

今年の夏はことのほか暑かった。夏休み直前に、不覚にも右足を骨折してしまった私にはこの暑さは何倍にも応えた。そんな私に、職員や子どもたちはもとより、保護者や地域の方々が寛容な心で接してくださり、温もりを感じた夏でもあった。

幕末から明治の初め、多くの外国人たち(主に欧州人)が日本にやってきた。彼らが一様に驚いたのは、富士山でも芸者でもなく、通りに遊ぶ子どもたちの笑顔とそれを見守る大人たちの寛容さであったという。外で元気に遊び回る子どもたちに周囲の大人たちは実によく声をかけ、時に子どもと遊んでいたという。少々のいたずらをしようが、大人たちは笑ってそれを見守っていたという。考えてみるに帝国主義まっただ中、大人も子どもものんびりとはしていられなかった欧州人にはこのおおらかさが驚きであったに違いない。

社会科の教科書に出てくる寺子屋の絵図の中の子どもたちは、先生の話も聞かず、いたずらをして遊んでいる。先生はそのような中でも熱心に講義をしている。思わずほほえんでしまう場面であるが、よく考えるとこれは現在の学級崩壊に近いものがある。この時期の日本人は子どもたちの行いを寛容な心で笑い飛ばしていたのであろう。

なぜ、このように寛容な世の中であったのか。それには諸説あろうが、私は顔の見えるコミュニティだったからではないかと考える。どの子がどこの子であるかを大人がみんな知っていたということである。知ることは安心であり、知られることもまた安心である。子どもたちにとって大人はすべて顔見知りの先生であったはずだ。こうした社会に育った子どもたちが実にたくましく生きたことは歴史を振り返れば明らかであろう。

私の勤務する学校は、規模も小さく全校の子どもの顔を見ることができる。そして地域の顔も見えてくる。かつて欧州人を驚嘆させた日本人の寛容さがここにはある。「遊びをせんとや生まれけむ」存分な遊び心で、子どもとともにこの寛容さを享受している。(平成22年9月投稿)

 

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